以下の文章は「ゆゆ式Advent Calendar 2022」16日目の記事に該当します。
皆様ご無沙汰しております。
1年ぶりの投稿というわけで、昨年 *1 に引き続きの参加となりました。
紅茶と申します。
この一年は前回参加時の暴走を反省し倒す一年だったこともあり、今回こそは当初参加を見送る予定でしたが。当日空きのまま一日が過ぎるのを二度見過ごすことが出来ず。遅刻となっているのに素知らぬ顔なのも、全ては当日参加を決意してから動き始めたが故です。今年はサクッと読めるよう無駄は極力省いていきますので、ご容赦いただければ。
枕がてら、ゆゆ「四肢」などと嘯き
早速本題に入りますが、「ゆゆ式といえば」という問いに対し挙がるであろう回答の一つに「手」というものがあります。この作品における手の意味合い、というのはこれまで様々な記事を通じて三上先生本人はもとより様々な方々に言及されており、過去にはこの Advent Calendar においても題材として提示されています。*2
「手」とくれば当然次は「足」となるわけですが。ゆゆ式という作品における足、すなわち脚部へのこだわりようというのはこれまた様々な方々が興味をひかれる内容であり。こちらも【 ゆゆ式 脚 】等のワードで検索してみれば一目瞭然です。特にアニメに関しては「脚アニメ」という言葉が出てくるぐらいはっきりと脚の存在感が印象づけられていたものでした。
というわけで今回は、脚に着目して書き綴ってみることにします。
人間は二足歩行である
いきなりなんだという話ですが。一応、読み進めればゆゆ式に繋がります。
ゆゆ式が「脚アニメ」とまで呼ばれる所以とは……というところを考えてみると。やはりその表情の豊かさ、というところがまずは思い浮かびます。これは手について言及されるときも決まって議題に上るところでしょう。
しかし、少なくとも足首より末端側の部分(便宜上、以下ではこの部位を「足」と表記します)は、明らかに手首より先端のそれ(同様に「腕」における「手」としましょう)とは性質を異にする部分を有します。
というのも、人間の手はその関節がある程度独立して動くのに加え、会話等のコミュニケーションにおいては視覚を通じてインプットされやすい位置に存在する一方、足は動かすよりも主として接地することに特化している機構となっているためです。
このことは足という部位が(足首にしろ足の指にしろ)その関節を独立させてコミュニケーションに活用するということに対して大きな難を有する、ということを意味します。
さらに視覚を通じたインプットということであれば、ゆゆ式という作品中において手はほとんどの場合むきだしになっている一方、足は靴や靴下に覆われているためそもそも見えないということも大きな差異でしょう。
これらの事象を踏まえると、人間の四肢において手と同レベルで下半身からなんらかのインプレッションを与えるためには、必然的に脚全体を活用せざるを得ない、ということになります(仮に靴を履いた人が足の親指以外を折り曲げて "good" の意思表示をしたつもりになっても、当然ながら伝わるはずもありません)。
そこで問題になるのが、「脚アニメ」がなぜ脚「アニメ」なのか、という点です。これはあえて雑に換言するならば「目は口ほどにものを言う」ならぬ「脚は手ほどにものを言わぬ」ということ。
以下、そのあたりを少し掘り下げてみましょう。
アニメの脚とマンガの脚
やたら大きく出た小見出し(ややこしい)ですが。
所詮は絵もろくに描けない人間が口にするただの戯言なので。
以下その信憑性というか説得力は皆無に等しいです。
という但し書きを添えつつ。
さて、ゆゆ式における「脚アニメ」の何たるか、という話ですが。面倒なことを考えなければ「脚が頻繁に映り込む」というだけでも既に「脚アニメ」たる資格は有していますよね。ではそこにどんな意味があるだろう……ということを考えてみますと、前段で述べた内容を通じて「アニメゆゆ式における脚」というのは「感情表現やキャラクターの描き分けにおける一手段」として重宝されていた、という点が明らかな重要性を帯びてくるわけです。
すなわち、動くからこそ歩けば歩幅が生じ、座っていれば手遊びに応じた脚遊び(?)が生じる、みたいな。こういったところを踏まえたうえで改めてアニメに触れてみますと、それはそれは豊かな表現というものが見えてくるわけであり。そりゃ敬意を込めて「脚アニメ」と呼びたくもならあな……というわけです。
ではアニメが「どの場面でどこにカメラを据えるか」ということをどう決めていたのか、ということに話を移してみると。そこには制作スタッフがアニメで「ゆゆ式」をやりたかった、という意志が見え隠れするわけで(アニメに対する制作態度を詳述したインタビューに関しては各所に散らばっているので適宜参照していただければ幸いです、すみません)。要はアニメで描かれているものの多くはマンガに端を発しています。
これは当たり前のようですが、それを意識したうえで原点のコマを参照すると、マンガが静止画の連結であるという当然の事実がはっきりと見えてきます。それは同時に、人間がいかに断絶した事柄を頭の中で補っているかということの再確認にもなり。
ゆゆ式という作品はそんなことまで教えてくれるんですね。
もちろん他の作品においてもマンガとアニメという媒体を比較すれば自ずとそういったことは見えてくるわけですが、この作品においては「マンガから説明を削ぎ落とし」「その代わりに四肢を存分に活用し」「アニメがそれを忠実に映像化する」というプロセスが成功したからこそ成立した、まさに努力の賜物であるということが非常に貴重ですよね。やはり映像化というものはこうであって欲しい。難しいのは百も承知だけど。
ただ愛でる
さてそんなゆゆ式の脚ですが。既刊12巻と(ところで13巻はいつですか……)とすっかりきらら大御所の仲間入りを果たしたところで。ここはひとつマンガにおける脚の描写というところをかき集めつつ愛でていこうかな、という次第です。
せっかくなのでがっつり拾っていきたかったんですが、流石に全体が映り込みつつ小さいながらも細やかな描写が光る、というコマをも範囲に含めてしまうとなかなかの量になってしまうこともあり。明らかに下半身に力点を置いたコマの抽出、というところで区切りを設けました。
正直とても悔しいですが、そもそも未だ「データ化らしいデータ化もせず一から単行本冊子を確認しつつ当たりのコマを撮影する」というザ・アナログ作業に終始していること自体が駄目なんですよね。この企画の中でも何度となくコマ抽出なりなんなりが話題に上っているというのに。まあ致し方なしということでご勘弁下さい。
ではさっそく。どーんと。
はい、こちらがゆゆ式における脚の歴史です。謂わば「脚コマ」。圧巻ですね。ちょうど今年の Advent Calendar では主宰者たる esuji さんの手により yuyusearch なる便利ツール(ありがたや……)が登場していたこともあり、折角なのでそちら準拠でファイル名を定義してみると。
ざっとこんなところでしょうか。そうです、既刊12巻に対して20コマということは、1巻あたり 1.666... コマ、すなわち割合としては1巻につき1コマ以上の頻度でこのような「脚コマ」が出現していたというわけですね。体感的にはそのラインは超えそうというところだったので、まあ納得かなと。
……しかし。図5を参照すればわかるとおり、算出された頻度はあくまで集計を均等に割り付けた際の計算値でしかなく。実情としては偏りがあり、2巻・7巻・8巻においてはその出現が確認できないことがわかります。
そして同時に、近刊となる12巻においてはその出現回数なんと4回。昨年の椅子同様、直近が最多となるグッドタイミングだったわけです。題材を決めてから集計してみて初めて気づく驚きでした。まだ13巻が出ていないというこのタイミングでこの題材を選んだのも運命というヤツなのでしょうか。無意識とはいえなかなかどうして。
そう、ここでたとえば「脚コマ」の起源たる左上のコマ(01-047-4)に付随するあれやこれやを思い出してみれば。アニメゆゆ式がいかに丁寧だったか、立ち所に察せられるのではないでしょうか。
マンガという媒体において、実のところこの一コマだけでは「歩き方」そのものは見えてこないわけですが。同シーンを気合いを入れて「動かす」ことにより、挙措を通じて3人の性格が滲み出てくるような場面としての意味が付随されています。こういったことの積み重ねが、ゆゆ式という作品のアニメ化を語るうえで頻繁に語られる丁寧さの裏付けとなっているわけですね。
……と、こうして並べてみると。改めて「脚コマ」の多くは移動を伴う場面転換に紐付けられていることが読み取れます。ゆゆ式は登場する「場」の種類が比較的限られているマンガですが、それは同時に時間を隔てたある「場」から異なる「場」への移動を容易に想定できる(例として、放課後の部室まで・登下校・唯宅への移動……とこれだけでもうその大半が挙げられているような、はたまたそうでもないような)ということをも意味します。脚そのものに意味をもたせていない場合にも、こうした条件付けによって脚を描くことの意味合いを確保できている。これは僥倖、というほかありませんね。
本来ならここで他作品との対比を示すことで内容にもアクセントが生まれてくると思うのですが、残念ながらその余裕がなく。それそのものに付随するイベントとして脚に着目することなくただ脚を描く、ということを好む作品が他にあればおそらくその作品の描き手たる先生も同様の嗜好の持ち主なんじゃないかな……とか。
そして同時に。こう俯瞰してみることで、改めて9巻の積極的迷子回の特殊性が垣間見えますね。(単独の人物で成立するようなネタが付随しない場合)会話を伴う移動に対し「移動」そのものに着目した視点として機能していた「脚コマ」が、会話という装飾を取り去ったうえで(その機能はそのままに)成立している、というワザの妙です。
当然ここではコミュニケーションを伴う時間経過が存在しているわけで、つまり会話を描くことなく「描かれない会話」を描いているといいますか。
もうこう書いているだけでめちゃくちゃにテンションが上がってきてしまう。
やはりこの回、出色のクオリティです。
さて、お次はその描写についてですが。連載初期からふくらはぎ、膝や踝あるいは踵の凹凸をしっかり意識した描写というものが 4コママンガという媒体を通じて なされているということは、驚異的といっても過言ではないのではないでしょうか。その性質上コマに割ける情報量(まさしく昨年あった題材「冗長率」の議論の延長線上にある概念ですね)が少なく、含ませた意味には次のコマへの推進力が必要になってくることが往々にしてある4コママンガというフォーマットの中で、これだけ肉感にあふれた四肢を描いているということは、やはりそれだけそこにそれらのフォーマットを外れた嗜好が見え隠れすることになるわけです。
それこそ、アキレス腱まわりの1本線だけでその立体感が大いに補強される、とか。その部位が靴下を伴って描かれた一コマ(12-094-6)で、しっかりその影を1本線ではない形で描写している点とか。よくぞここまで。
このあたりは、こと「手」に関していくらでも語られてますね。好きだから描いてるというアレ。
つまりは脚もそういうことでしょう。
ゆゆ式では足元描くこと少ないけど 女の子が足首曲げて脚の外側のエッジで立ってるの かわいいよね
— 三上小又@ゆゆ式12巻発売!! きららファンタジアやってるよ。 (@mikamikomata) 2017年6月23日
ほらね。
(三上先生、毎度ながら勝手な引用お詫びいたします)
そして同時に、描写の面から丁寧さがうかがえるのはそのリアルな人物配置でしょう。窓に寄りかかるひと、向かいあうひと、座るひと、その他もろもろ。そのときどきの登場人物が、脚あるいは足の振る舞い、靴下さらには鞄などのパーツからちゃんと想像できるようになっているの、意識してみるとすごく興味深いことだったり。
このあたりはその前後に引きのコマがある場合、その整合性を実際に確かめることが出来るのでなおのこと面白いです。それこそこういったところからも各人の性格が見てとれたり。
もっと愛でる
というわけで。鞄の話までくるともう少し視点を上げてみたいなあ……ともなりますか。いいでしょう、こちらもどーんと。
……といいつつ、別に鞄をメインに話を進めるわけでもなんでもないんですが。
下段左2と右2が好対照を成すの、個人的にポイント高い。
……。ちょっとどう言及すべきか迷っちゃいましたけど。またこちらも yuyusearch準拠でサクッと。
まあ間違いなくイイですよね、この造形美。わびさびと言いますか(なんのこっちゃ)。まず「脚コマ」やや上視点について、意外とこうしてみるとこのアングルは少ないんですが。それでも思い出した頃にスッと挟まれたりするので油断ならんですね。
あとやはり目につくのは影の妙。あるのとないのじゃ大違い。
いやそれにしても近年の構図、素晴らしすぎませんか。これまでなら引きで見せていたであろうアングルでも話者の一部を画面外に追い出すことで新鮮さが演出される、という。こう、会話劇として見慣れたコマの中に添えられた山椒の役割といいますか。
小粒でもぴりりと辛い。会話劇としてのそれにも近年顕著となってきた、一見必要そうに感じられる情報の除去(すなわち省略)による刺激ですね。
まだ愛でていたくはあるものの
たとえば、上に掲げた小見出しをそのまま読んだときの14拍を。きれいな拍子にも七五調にもうまくハマらないぎこちないリズム、と斬って捨てるか。いっそ「ていた」の部分を「た」と差し替えれば12文字になるな、と解釈するか。かたや【・・・○|○○○○|○○○○|○○○○|○・・・】と捉えて楽しむか。こういうところに「ゆゆ式を体で感じる」ということの根幹があるよなあ、とか。
そんなことをぼんやりと考え続けているここ数年。ただの連想による戯言です。
てなわけで、つらつらと書き連ねて参りましたが。結局今年もいつもどおりといいますか、パッと思いついたネタ一本勝負で思考の向くままに書きなぐっていった結果、このような形と相成りました。こういうネタは書かずとも好きな人はみな漠然と認識しているようなアレなので、今更改めて取り上げるまでもなかったかもしれませんが。
まあ正直。yuyusearch にかこつけてまた情報収集方面から何かしたかった、というところは否めず。乗っかっておきたいところは乗っかって然るべきじゃないですか。勢いって大事。
僅かでも楽しんでいただけたならば幸いです。十中八九、去年の文章よりは力を抜いて楽しめる筈です。ありゃ色々な意味でやりすぎたので。
去年のアレについては結局、時系列まわりの件を提示するだけしてぶん投げっぱなしになってしまったところが非常に申し訳ないのですが。もはや私の手ではどうにも。
初手から遅刻上等で準備を進めていった結果、奇しくも去年と同じ最終日での放流となってしまいましたが。まあ収まるところに収まったので、ね。
それでは、メリークリスマス。
はたまた、よいお年を(気が早い)。
乱文乱筆失礼いたしました。
※なお、手(腕)編があるわけではございません。ゆるして。