ゆゆ式 Advent Calendar 2021 25日目:ゆゆカルミステリーツアー


以下の文章は「ゆゆ式Advent Calendar 2021」25日目の記事に該当します。

adventar.org


初めまして、でしょうか。
はたまたご無沙汰しております、でしょうか。
紅茶と申します。

過去、このゆゆ式アドベントカレンダーには 2018「ゆゆ式と常識」*1 *2 および 2020「DDED:あるいはゆゆ式と音楽」*3 と都合二度にわたり、読み終えてみても結局何を書きたかったのやらいまいち判然としない雑文を寄せておりました。このたびは何をどう間違えたのか、まさかの最終日という大役を仰せつかってしまい。恐縮しきり。

前回もまず振り返りから入ったものと記憶しておりますが。
歴史は繰り返す、というわけで。
去年の記事に対する反省コーナー。
bloom-night.cocolog-nifty.com

あの内容でなぜこの記事の紹介が抜け落ちていたのか。やってること丸被りでしょうに。猛省すべし。
……といいつつ、今回もこういうことがありそうな内容なだけに戦々恐々といった面持ちなのですが。そもそも今となってはリンクが切れてて読むことも叶わない個人記事や、いつ見ても在庫の入る気配がない評論入り冊子なんてのもあるので。ままならないものですね。

◆追記
注意力散漫といいますか、はたまた書き終えた後の気の緩みといいますか。
やっぱりありましたね、このへんの凡ミス(差し込んでおきました)。推敲の不徹底はいくらでも出てきますが、資料の差し込みくらいは忘れぬようにしたいところ

正直に申し上げて、これを書いている今なお自分が最終日という位置に収まっているという実感が湧いてきておりません。まあこればかりは成り行きに身を任せた結果というほかないので致し方ないところでしょう。かねてよりそのつもりで準備を重ねてきた、というわけでもなく。「今年は執筆時間を割くのもなかなか厳しそうなところ、小ネタで埋めていいものか逡巡しているうち気が付けばそこしか空きがなくなっていた」……とこう書き並べてみるとなんとまあ身も蓋もない。

とはいえ最終日といえば、ここ二年は全内容振り返りという高密度な記事が投下されていたポジションということもあり。流石にこれでは内容との釣り合いがとれそうもないな……ということで、一度は伸ばしかけた手を引っ込めたのですが、三分も経たぬうちに後ろ髪を引かれる思いがふつふつと。それならば、とひとまずこれまでの最終日の空気をざっと確認したところ、その柔軟ぶりにこれは……と感じたのも束の間、気が付いたときにはもう自分のアイコンがそこに表示されていたのでした。おお、勢いというものの怖さよ。

そんなこんなで、言ってしまえば(開き直って突っ走るほかあるまい……)というのが嘘偽りのない執筆時の心境。せっかく今年も全部埋まってよかったですね~となっているところ、あまり面倒なことは考えずのびのびといきましょう、のびのびと。では。

因みに。2021年は1巻発売から12年目の12巻発売という記念すべき年にあたるというわけで、最初に頭に思い浮かんだネタは「12音技法でゆゆ式」だったんですが、どう転んでもモノになる気がしないのでお蔵入りとしました。我こそは、という奇特な方がおりましたら是非

それから、本編に入る前にまず一つおことわりを。“ゆゆカルミステリーツアー”なるお題目をブチ上げてはみたものの。万が一期待を抱いていた方には申し訳ございませんが、The Beatles『Magical Mystery Tour』*4 とは何の関係もない内容となっております じゃあなんでそんなタイトルつけたんだ、というのは後ほど。


Topic 1:フェチ

――突然ですが質問です。ゆゆ式の好きなところ、皆さんなら何を挙げますか。
――私ならこう答えるでしょう。「椅子の線ですね」

半分はハッタリなのでこの言葉のみでは皆目意味が分からないかもしれませんが、要するにこれは「あまり取り沙汰されていないように見受けられるゆゆ式の好き要素に着目してひとネタでっち上げてみよう」という試みです。Topicとしてはほぼ枕と言って差し支えないのですが、主張の強さとしてはそれ相応に大きなものがありますので、少々お付き合いください。

いきなりなんというお題目だよ、というツッコミはさておき。皆さん、ゆゆ式において椅子といえば何を思い出すでしょうか。学校の椅子?部室の椅子?はたまた唯の部屋で座卓を囲むときの座椅子?いやいや、やはりそこはあの部屋でひときわ大きなインパクトを放つ「あの椅子」でしょう。言わずもがな、唯のPC机の前に鎮座ましましているオフィスチェアのようなアレです(結局言ってる)。

実のところ、私はあの椅子が作品中に登場するときの描かれ方が大好きでございまして。そう、あの背もたれ。単行本の頁を捲りながら、あの椅子の描写とは切っても切れない背もたれのパターンが目に入ったとき、私はなぜかなんとなく嬉しくなるんですよね。

このTopicについて十分な説明を試みんとしたところ、興が乗った結果いつの間にやら「過去あの椅子が一部分でも登場した4コマを全て抽出する」という暴挙に至ってしまいました。その数全213本(個人の見解による)。これは流石に記事にしようがない。無念。

ということで。椅子、あるいはその背もたれへの興味を惹こうとすべく、それらにまつわるちょっとした小ネタをいくつか挟んでいきたいと思います。

まず、1巻における椅子登場回であるところの7・8本目 *5 をパラパラめくってみると。これは今となっては結構な驚きなんですが、実は当時の椅子のデザインは2巻以降現在まで続くそれと若干異なるんですね。具体的には、背もたれが途中でなくなっている。加えて1巻および2巻にて見受けられる特徴としては、背もたれの線が等間隔に引かれた直線であるという点。これは椅子の構造に対する立体感をやや損ねるという意味でも、またただ単に味気ないという意味でも、翻ってランダムに引かれたパターンの美しさ、心地よさを実感させてくれる良い実例であると思います。

ここで「7巻5本目」という情報を出してすぐにああ、アレね……となる方は相当な唯の椅子の背もたれファンでしょう。もしそんな人が存在するのなら拍手モノです。というのも、この7巻5本目というエピソードは、3巻以降で唯一の機械的な直線パターン回なのです。

f:id:monochromeclips:20211224230552j:plain

図1:『ゆゆ式』7巻5本目より

背もたれに引きつけられるようになってからこの事実に気づいたときの驚きようといったら。未だになぜこの事態が生じたのかすら皆目見当もつかない、まさにミステリー。

それではメインの小ネタをば。

そう、このちょっと目を離したら埋もれてしまいかねない小ネタ中の小ネタを紹介したかった、というのがこの節の主たる目的です。そしてこの事実がどこから適用される(話数を跨いで同じパターンの使用を確認できる)か確かめてみたところ、どうやら9巻2本目のエピソードからその使用が認められるということが明らかになりました。こうしてまたひとつ、どうでもいいと言ってしまえばそれまでの情報がこの世に生まれたわけですね。

なお、そうはいっても。あくまでこの線というのは「白と黒と二色で描かれる漫画の世界における背もたれの(おそらくやや黒味の強いであろう)灰色」を表すために用いられた漫画的な描写に過ぎないのであって。当然ながら、いくつかの巻の巻頭カラーページでその姿を見せる際には単純に灰色で塗りつぶされているわけですね。ちょっとせつない。

◆追記

この「予め用意してある背もたれ線」ですが、実際には用意されているパターンのサイズ等わからないことが多々あるというのが正直なところ。直感的にわかる特徴的な部分を目印にして判断していましたが、実は気づかないところでも使用されていたりいなかったりするのかな、とか(一例として、コマ脇の小さなスペースや角度のある描写の際は例外となっているよう見受けられます)。

最後に次なるTopicへの橋渡しの意味も込め、なにやら意味ありげな表を貼りつついったん終幕といきましょう。

f:id:monochromeclips:20211221230023p:plain

表1

このTopicに関しては語るより実際に味わっていただく方がさくっと伝わるでしょうから、何はなくともこれは、という回を列挙するにとどめておきましょう。椅子の主張が強くなってくる6巻あたりから、一巻につき一本縛りで適当に挙げて。6巻7本目、7巻14本目、8巻2本目、9巻9本目、10巻5本目、11巻14本目、12巻3本目……ああやっぱり一本じゃ足りないというこのもどかしさ。

f:id:monochromeclips:20211224223228j:plain

図2:『ゆゆ式』6巻7本目より

f:id:monochromeclips:20211224231400j:plain

図3:『ゆゆ式』7巻14本目より

f:id:monochromeclips:20211224231914j:plain

図4:『ゆゆ式』8巻3本目より

f:id:monochromeclips:20211224232123j:plain

図5:『ゆゆ式』9巻9本目より

f:id:monochromeclips:20211224232333j:plain

図6:『ゆゆ式』10巻5本目より

f:id:monochromeclips:20211224233138j:plain

図7:『ゆゆ式』11巻14本目より

f:id:monochromeclips:20211224233234j:plain

図8:『ゆゆ式』12巻3本目より

このあたり、見ているだけで和みます。

それでは、これからもどうぞよき背もたれライフを。

◆追記
このネタで書くと決めて情報収集していたときにはしっかり目をつけておいていたというのに、なぜ肝心の記事に挟み込むのを忘れてしまうのか。こういうのは本当に減りませんね……。

てなわけで、あの椅子のモデルとなったあろう製品に関する検証記事をば。

watchmono.com

やっぱり気になる人は気になるものですよね、こういうガジェット。……モアレっぷりからその背もたれのメッシュにおける規則的パターンが垣間見えるといいますか。まあそりゃそうよね。それでもあのランダムな引かれっぷりが好きなんですよ。わかって。


Topic 2:時の縺れ

さて、早速ですが。
先ほど挙げた表1より橙色の塗りつぶし情報を取り除いたものが、以下の表2です。

f:id:monochromeclips:20211221032642p:plain

表2

こちらは、皆さんご存じのゆゆ式という作品を「ある観点」から捉え直すことにより作成しています。それではここでクエスチョンです。その観点とはいったい何でしょうか(鳴り響くジングル)。

……はい、つまりこれこそミステリーツアーです。これでわかる人は相当なものだとお見受けしますが。もう少し言葉を加えるならば、「ある主題にかかわる謎を矢継ぎ早に提示し、その謎を詳らかにしていく過程で見えてくる何かを探る」すなわち、ふ○ぎ発見。要はそういうわけですね。そこから先に挙げたかのアルバムタイトルを連想したところ、「マジカル」から「ゆゆ式カルトクイズ」、すなわち「ゆゆカル」なる文字列が浮かび。というわけで
ここはひとつ、共にゆゆ式の謎を紐解く旅に出るとしましょう。

とまあおふざけはここまでとして。あえて数字しか振っていないものの、ポイントはその数字の大きさや表に対する特徴的な線の引かれ方でしょう。おそらく、すぐに答えを思い浮かべられた方、なんとなくわかるものの違和感が拭えない方、その他もろもろ、というところに大別されるかと存じます。

そうです、縦にも横にも12の数字が並び、且つ縦は4から始まり12と1の間で区切られ、3で折り返す。つまり、縦の数字は年度です。とくれば横の数字はもちろん、今年の11月末で12巻を数えることとなった……とうわけで。巻数ですね。そして安定掲載期の4-7巻において13という数字の意味するところは、その巻における収録本数です(1巻走り出し時点におけるイレギュラーっぷりが光りますね)。というわけで正解は、12巻収録分まで更新した各話の作品内時間対照表でした。

この作業に関して参照可能な過去データとなると、Eyy氏の手によるこちらがよくまとまっています(8巻時点まで)。

eyyiptic.web.fc2.com

あるいは、twitter内で見かけるゆゆ式カルトクイズ関連でも、このあたりに関する言及は散見される印象です。ではなぜ、それらのデータを更新するだけにしか見えないものを出すに足ると判断したのか。それはそもそもこの「時系列に関する認識」が、過去それを提示した形跡のある方々の間でもおそらく一致していないと読み取れたことに起因します。

さて、それではここで掲げた表2はどの程度信頼に足るのでしょうか。それを補強してくれる要素は、大きく分けて3つ。

第一に、前提として共有されている情報、特に公式ガイドブック『ゆゆ式一式(以下、一式)』の存在。この文献の中は学年・月別のエピソード一覧が頁数と共に掲載されており、先に挙げたEyy氏もこれを参照して5巻時点までの時系列は確定としています。そしてこの『一式』を読み解くことにより、

① 1年4月・5月の重複

② 『まんがタイムキャラット(以下、キャラット)』への出張掲載

③ 1年3月(2週目)の重複、および 2年8月(1週目)掲載回の非存在

という3つの重要なイレギュラーが明らかとなるのです。先の表には一見すると【一つのマスに一つの数字】というルールが横たわっているようでありながら、一部明らかな違和を平然と同居させていました。そこにはこのような「情報に補強された確信」があった、ということになります。

もう一つ、こちらはルールとして広く巷に認知されているであろう情報として、高瀬司氏編集の冊子『マンガルカ』ほか、いくつかの媒体において「サブキャラクター三人組との邂逅および親密度の上昇」がループ毎にリセットされる(つまり二年次の春先はまだ打ち解けていないので登場し得ない)という旨が明示されています。これもサイクル更新を察知するうえで非常に重要なファクターです。

この第一の要素はあくまで「明示されている情報」であるため、情報の整理さえ行えば自ずと見えてくる、といってしまっても差し支えないでしょう。問題はここからです。まずはこちらの表をご覧下さい。

f:id:monochromeclips:20211221032719p:plain

表3

さて、今度は何を示すものでしょうか。当然、ポイントとなるのは2色の色分け、赤枠の存在。6月のほうはアニメでもはっきりと意識させられるような描かれ方がなされていたのでピンとくる方も多いことでしょう、6月と10月、ゆゆ式においてそれは衣替えの季節を示します。そしてここでも、我々はイレギュラーという壁にぶちあたるのです。

表2において、いくつか黄色に塗られたマスが存在するのが読みとれるでしょう。言うまでもなく、これらは衣替えの時期に衣替えがあったと読み取れる描写がなされていなかった、ということを示すものです。まず2巻11本目について。先ほど挙げた『一式』に則る、という前提に立つならば、これは前月においてキャラットへの出張掲載を挟んだ関係で、感覚にずれが生じたのかもしれません。

f:id:monochromeclips:20211223231007j:plain

図9:『ゆゆ式』2巻11本目より

一方で6巻8本目については、翌月掲載の9本目において「今月が縁の誕生日」という内容の文言があるため、邪推すれば「たまたま10月を半袖で書いてしまったがゆえに、わかりやすいよう縁の誕生日に言及する回として修正を試みた」と読めなくもないわけです。正直、そこまで勘ぐる必要もないかとは思いますが。

f:id:monochromeclips:20211223232714j:plain

図10:『ゆゆ式』6巻8本目より

同様に、8巻14本目といえば「単行本への13話掲載」という連載安定期にわずかながら乱れが生じたといえる時期。こちらについても、同様の状況変化が感覚のズレを生んだ、ということがいえるかと推測されます。しかしこちらについては、もう少し考えを巡らせる必要があるのです。なぜなら先の表を参照した場合、ちょうど4か月後の9巻4本目において再度衣替えのズレが生じているためです。これはつまり、8巻14本目が重複した5月のエピソードと捉え得るのでは、という指摘です。

f:id:monochromeclips:20211223232824j:plain

図11:『ゆゆ式』8巻14本目より

f:id:monochromeclips:20211223232910j:plain

図12:『ゆゆ式』9巻4本目より

これを否定するのは、まず「以降のエピソードをイレギュラーを想定せず並べていった際、次の衣替えタイミングである9巻12話がちゃんと6月に位置してくれる」という点。そして。

表4

なんとまあ、また新たな表が飛び出してしまいました。そのうえこれにも黄色のマスがあるという。しかしひとまずはこの表4をもう一つの手がかりとして、先の話にケリをつけることを優先しましょう。

こちらの意味するところもわかりやすいですね、8月と1月に何かが集中しています。高校生にとって8月といえば、すなわち夏休み真っ只中。同様に年末年始は冬休み。裏を返せば、「休みがある」ということは「学校に登校する必要がない」ということを意味します(例えばふみはバドミントン部の練習があるやもしれませんので、あくまで主たる三人組に限った話)。というわけで、表4は場所を示す表となっています。

マスに橙色と緑色の塗分けがあるのは、すなわちその掲載分全ての内容において唯の部屋ほか「校内とは趣を異にする空間」が舞台となっているのか、あるいは一部が該当するのか、という差を明示したものとなります(回想およびサブメインの4人に対するそれは考慮していません)。……と、ここまでくるとわかるわけですが。先ほど表2において発覚したイレギュラーを重複としてとらえ、あとの話を1つ手前の月にずらそうとすると。それはすぐに「2年8月に三人組が登校している」という矛盾を生じてしまうわけです。これらを総合することにより、おそらくこの表に記載した時系列がある程度の強度を有するのではないか、という淡い期待につながるというわけでした。

さて、それでは表4の黄色マス、9巻14本目について考えてみましょう。通常であればこれは13本目の翌月、つまり8月の内容にあたります。が、しかし。ここで登場する面々は普段通り学校に通っており、制服を着用しています。

f:id:monochromeclips:20211223233026j:plain

図13:『ゆゆ式』9巻14本目より

衣替えから推測した場合のイレギュラーは、掲載の流れをそのまま辿って他の月が破綻しないことから「当該月の描写におけるイレギュラーが生じた」として解釈していましたが、ここで観測される8月の登校という事象は(現状ゆゆ式では8月に登校日にあたる概念は存在しない可能性が高いため)寧ろ「前後いずれかの月が重複した」という形で消化するほかありません。さらにここで、当該回の会話において「縁の去年の夏休みの話をしている(今年ではない)」という点から、夏休み明けの9月より夏休み前の7月の方がよりしっくりくると判断し、7月の重複という形で処理した、というのがその経緯です。

……とはいえ、ここまで書いておきながら。省略という手法を許容とする以上、やはり先に挙げた8巻14本目と9巻4本目の処理に関しては疑念が残ります。というのもそれぞれ
「5月の重複→6or7月の省略→8月で整合性確保」
(積極的迷子回、翌月縁にエアメール届く)
「9月の重複→10or11月の省略→12月で整合性確保」
(冬休みの予定が話題に)
という可能性が否定しきれないためです。最終的に表はこの重複を不採用としています。明確な決め手はありませんが、強いて言えば「袖の誤りと解釈すれば重複と省略のセットをねじ込むことなく連続的な時間が流れる」という点でしょうか。はたして決定打はあるのか(求む有識者)。

以上、真相は定かではありませんが、まあこの縺れそのものは取り立てて論うような性質のものではないでしょう(この節の目的はあくまで時系列の再整理にあります)。寧ろ12巻にわたってほぼ破綻させず、且つ適宜修正を施しながらこのルールを守り続けている三上先生の胆力には、もはや驚嘆するほかないといった心境です。本当にすごい。

◆追記
書き終えて暫くしたのち改めて読み直していたところ、よくよく考えてみればこのTopicの直接的な執筆動機にちゃんと触れられていないということに気づき(これを書かねば結局指摘したかっただけとしかとれないということもあり)慌ててしまいました。その目的とは「再整理することにより作品内の衣替え時期を6月と10月として提示する」です。

一話で一月進むという通常のルーチンに対するイレギュラーを把握しないと、作品内の月が周回を重ねるうちに少しずつずれてしまうため「一定の周期で訪れるはずの衣替えがきれいなサイクルに乗らない」という事態が発生します。椅子について調べている際、たまたま衣替えについてまちまちであるとする言説を見かけたため「この管理体制においてはほぼ整合性が維持されている筈」と推察し、定期イベントを軸に並べ直しを図った次第です。次のTopicにて引用しているインタビュー (注釈8参照)の中でも先生が「指摘されると困ります」と述べられている様子が確認できるため、その意図はないことを改めて強調しておきます(不必要かとも思われましたが念のため)。

そしてこの副産物として見えてきたものが、次のTopicへの端緒となりました。こういうこともある。


Topic 3:意図

さて、ここまでの文章は畢竟「取り上げたいことをただただ取り上げ続けただけの代物」でしかなく。だから何だ、と言われてしまえばそれまででしょう。せっかく年に一度の機会を得たのですからこれで終わってしまっては申し訳が立たないといいますか、寧ろしっかり書きたいことは書ききってしまった方が自分のためにもなるでしょう。年末年始に良い寝覚めを得るためにも、もうひと踏ん張りといったところです。

表4(再掲)

さて、ここに再掲したのはTopic 2において示した表4。先のTopicにおいて、時系列を紐解く手がかりの一つとして「唯の家に集まって楽しむ回」というものを提示していました。ここでは便宜上、この回のことを【櫟井家団欒回(以下、団欒回)】と名付けます。

櫟井家団欒回(いちいけだんらんかい)、漢字表記にしろひらがな表記にしろ字面に妙な味がある。

ここから始まるのは(敢えて少し大仰な文言を用いることによりところどころフックをかましつつ)先の2つのTopicを足掛かりにして気の向くままに飛躍させた思考の発露です。ゆゆ式という作品は「読者の数だけ解釈に用いる道具が分岐する」といっても過言ではないほど出力に対する自由度が高い、というのがその特徴であろうところは疑うべくもないと信じて。一気呵成に片づけてしまいましょう。


(1)ゆゆ式的図式

イベントなくとも、楽しい毎日。すなわち、「ノーイベント グッドライフ」。
これは今や「ゆゆ式といえば」というところまで浸透しているキャッチコピーです。
わずか一文のなかにゆゆ式のエッセンスを凝縮しているこのコピー、私ももちろん大好きなのですが。あえて「このコピーの形成過程、そしてこのコピーと共に歩んだ12巻分の歳月を辿ることにより、このコピーが有するエネルギーの大きさを読み解いてみよう」というのがこの節での試みです。

◆追記
「イベントなくとも、楽しい毎日。」と「ノーイベント グッドライフ」というフレーズの出自について。画像検索から判断するに、前者は単行本増刷時の帯にて確認できます。後者は言うまでもなくアニメ12話サブタイトルですね。その前後関係についてですが、私がゆゆ式にのめりこんだのがそのさらに1年後ということもあり、実はこれを書き終えた今なお把握できていないというのが実情です(本文中でその点にあまり触れない書き方となっているのもそのため)。一応、事前の情報収集においてその言及がある記事をあたっておりますが *6 、一次情報として確認できなかったという点に関しては後ろ髪を引かれる思いがしますね。

皆さんはゆゆ式の「ノーイベント性」というものをじっくり考えてみたことがあるでしょうか。これを考えるには、否定される「イベント性」とは何か、という命題への回答が必要となります。換言すれば、何を以てイベントと為すか。真っ先に挙げられるのは、学校行事に関するリアルタイムな描写がほぼ省かれていると
いう点でしょう。これは全くその通りであり、作品世界における「イベント性」その1であるといえましょう。

しかし、ここで一歩引いた視点、すなわち作者および読者という作品世界の外の存在を通じてこの「イベント性」を捉えてみると、ある一つの事象が見えてきます。それは、「ある決まった周期に従って描かれる事柄はイベント性を確保し得る」ということです。ここで引っ張り出したい道具がかの表4、すなわち【団欒回】の存在。この【団欒回】の形成過程を連載開始から作品内外を横断しつつ考えていくことにより、「イベント性」その2とでもいうべき性質が次第にその姿を現してくるのです。

当然ながら、三上先生が毎月のネームを切るときの思考を完全にトレースすることはできません。可能なのはあくまで、散在する状況証拠より組み立てられた存在しない線を辿るくらいのもの。しかし少なくとも様々な媒体において「基本路線は女の子たちのおしゃべりのマンガです。ただそれだけ」*7「ただのおしゃべりというか、キャラが話そうとしていることを描いているだけの作品」*8 というように【ただ~だけ】なるキーワードが散見されることから、連載開始当初より「会話のみを指向し、結果としてそれ以外が消極的な意味で排除される」という方針は確固たるもの出会ったことが窺い知れます。これが第1の「イベント性」の否定に繋がるわけです。

さて、それではもう一つの「イベント性」、すなわちメタ「イベント性」はどうでしょう。表4を見ると一目瞭然ですが、アニメ化に至る5巻までの時間軸において、年二回必ず訪れる【団欒回】というものが存在します。そう、それこそが8月と1月の「長期休み回」なのです。そして、初回が1年7and8月である、という事実と併せて重要なのが。特に連載初期において顕著な傾向として現れる「秋の【団欒回】の非存在」。こちらに関しては他の月において例外となる回も多々存在するため、やや強引な読みと言われればそれまでですが、あえてそのまま突っ走ると。以上より定立されるのは

<連載当初、【高校生たちの会話→学校生活における会話】という思考フローを経た結果、基本的な舞台として「学校の教室」と放課後の活動場所たる「情報処理部」が選ばれ、そこから弾かれる長期休暇というイレギュラーの中においても【3人が3人の空間を共有している】ということを示すための舞台として「櫟井家」における【団欒回】が策定された>

という仮定です。すなわち、作品世界における「反イベント性」を概念として導入するためには、長期休暇における【団欒回】の存在というメタな「イベント性」を導入する必要があった、というわけですね。それは謂わば、舞台設定という面からみた「ノーイベント グッドライフ」の成立過程。
そう、まさにこのような流れを辿り「反イベント性」は形作られたのです。たぶん。


(2)克「反イベント性」という挑戦

さて、こうして形成されたゆゆ式の作品世界における基本概念、「反イベント性」。しかしそれは、以降十余年の歳月をかけ拡張され、展開され、さらには克服され、飛躍するものとなっていくのです。ここではいくつかの重要な要素を順にピックアップしつつ、その発展過程を辿っていこうと思います。

言うまでもなく、「反イベント性」への対立項としてまず初めに挙げられるのは【サブ3人組の登場と関係性の変化】というエネルギーです。このエネルギーは、作品世界における時系列のループを先に進めてしまう原動力となるほど大きなものでした。ここでこの「イベント性」の性質に着目すると、これは先に挙げたその1の要素を多分に帯びています。つまり、3人組との遭遇は作品世界においても「イベント性」を有しているのです。このようにして、まずは作品世界への追加要素として克「反イベント性」が導入されました。

では、メタ「イベント性」という立場についてはどうでしょう。今読み返すと明らかな差異として表出するのが、連載当初のスパイスとして機能していた【コミュニケーションエラーによる違和の創出】です。これはメタ視点においてハッキリ意識される「イベントの存在しないイベント」としては最もわかりやすい部類の事象でしょう。しかし実は、これも一種の「イベント性」その1に括られる「作品内イベント」なのです。なぜなら、違和を生じた人物間においてはその「違和を生じた」という状況が「異常事態」として意識されうるからです。よって、連載を重ねるにあたり提示されたこれらの要素は、ともに直接的な「イベント性」として効力を発揮したといえましょう。

しかし同時に、おそらくこれらのエネルギーやスパイスはあまり多用が望まれるものではありません。なぜならこれらは「ただのおしゃべり」という唯一にして確固たる要件と並立し得ない、という重大な問題を抱えているからです。結果、時が経つにつれ【3対3】というエネルギーは【3+3=6】というかたちへと徐々に発散し、違和によるスパイスは【ネタの非伝達】のような齟齬を生じないそれへと展開していきました。おそらく時を経た今また3対3の対立構造が復活することはまず生じ得ないといっていいでしょう。

と、ここまでが「作品内存在」すなわち作品世界とに関するもの。そして、この「反イベント性」に対するメタ視点からの拡張の一端が垣間見えるのが、4巻における【団欒回】の増加です。あえてこの意味を「イベント性」と結びつけて捉えるならば。それは【団欒回】にメタ「イベント性」を付与させてしまっている【定期イベント性】が過度に意識されぬよう

<通常の学期内においても休日等の【団欒回】が存在する>

という情報を付与するための方法だったのではないか……と勘ぐっている自分がいます。そしてその流れはやや控えたものとなりつつも5巻においても維持され、「ノーイベント グッドライフ」なる言葉の源たるアニメ化を迎えるのです。


(3)「ノーイベント グッドライフ」、その
神髄

アニメゆゆ式においてそれなりに多くの人が一度は考えたことがあるのではないかという問い、それは「なぜあれだけ徹底的に「イベント性」を排した描き方をしておきながら、その本質ともいえるコピーをサブタイトルに採用した最終話においてその内容に【海回】という明らかな「イベント性」を付与したのか」です。この問いに関しては正直なところ、もはやとうの昔に議論されつくしている気がします。しかし今回は、これまで言及してきた内容を踏まえたうえでこの問いに立ち向かうことにより、なぜ「ノーイベント グッドライフ」なのか、何が「ノーイベント グッドライフ」たらしめているのか、というところがたちどころに理解されるのではないかという直感に従い、そのまま筆を進めることとします。

"No music, no life." という某CDショップチェーンのキャッチコピーでもおなじみ、この "No A, no B." というフレーズ。これは単純に「A
なければBない(AないBなどありえない)」というニュアンスの特殊構文です。「ノーイベント グッドライフ」というのはこの構文を形式的に拝借してできたものとなるわけですが、その大元は「イベントなくとも、楽しい毎日。」でした。

そう、「なくとも」なのです。「ないから」ではないのです。
「ノーイベントであっても、グッドライフ足り得る。」のです。

つまり、"No A, no B." という構文に引っ張られすぎると「ノーイベント」を前提とした「グッドライフ」という順接構造を想定してしまう、という罠にかかるわけです。あくまでここで謳われているのは、謂わば「ノーイベント ノーライフ」の否定であり、「ノー【ノーイベント】 ノー【グッドライフ】」という構造とは似て非なるもの。

この構造が理解された瞬間、最終話に【海回】として明らかなイベント性をもたせたことが大きな意味をもつのは想像に難くないでしょう。あのような【海回】としての作品世界における「イベント性」、そして【最終話】というメタな意味での「イベント性」。これら両面において、その「反【反イベント性】」は否応なく高まります。しかし、最終回はそれら全てを正面から受け止めつつ

<イベントがなくても楽しい毎日を送れる三人組(とそれを取り巻く作品世界)は、たとえイベントがあったところで変わらず楽しい毎日を維持できる。ひとたびイベントが終わればそこにあるのはもとの日常。そうした回帰を繰り返しつつ、楽しい毎日は連綿と続いていく>

という「ノーイベント グッドライフ」の神髄とでもいうべき概念を打ち立て、新学期と共に颯爽とその場を後にするわけです。なんという完成度でしょう。そこにあるのは「不変」ではなく「普遍」なのです。この達成をなせる筋書きだからこそ、プール回も鍋回もその「イベント性」を「反イベント性」に寄り添う形で十全に発揮できるのです。

これはアニメゆゆ式が為し得た一つの完成でした。


(4)勝ち得た安定の影、見出し得た活路と光

こうして、アニメゆゆ式は素晴らしいクオリティの下にその役割を果たし終えました。6巻以降の原作は、この達成を踏まえつつも、寧ろ安定した作品の「型」とでもいうべき流れを身に着けていきます。

大きな行事その他の起こらない日々の中で生じるふわっとした話題の提起から、そのまま無軌道な会話や部活動へのスムーズな移行、あるいはサブ組との緩やかな連携(2年次の周回により、サブ組との緊張緩和はその「イベント性」を徐々に喪失させていきます)。こういった要素は、その「型」において繰り返されている筈のネタから毎度発せられるネタの新鮮さ、という点において三上先生の柔軟性や機動力の高さを物語っているわけですが。同時に受け手の側に強烈に印象付けられた「ノーイベント グッドライフ」というコピーの影、とでもいうべき【「不変」あるいは「反イベント性」の遵守】という見えない力による抑制が僅かながら影響していたのだろうか、という淡い疑念が浮かびます。

表5

表5における黄色のマスは表1と表4の比較による副産物です。今更ながら、表1は椅子登場回と対応しています。すなわちこの黄色のマスは【団欒回】以外の椅子登場回、つまり唯が単独で部屋にいる4コマが登場した回です。これを見ても6巻1本目というアニメ放映真っ只中の回を最後に、そのようなシーンが登場していないことがわかります(あくまで椅子からの副産物のため、ゆずこや縁のそれは手を付けませんでした、すみません……)。先に述べた「反イベント性」に関する安定という概念が静かに通底していたのではないかという説は、こんなところからも補強されるわけですね。

ついでなので言及すると、このあたりから同時に椅子の登場回における登場コマ数が増えてきます。これはもしかすると、良い意味で【団欒回】におけるセリフ回しとその構図にもしっくりくる「型」が見出され、その結果がパーツとしての椅子の活用につながった、という話なのかもしれません。これはこれまでの数倍飛躍した見解ですが。

このような一種の膠着状態は、8巻4本目において突如揺さぶりをかけられます。

f:id:monochromeclips:20211224033558j:plain

図14:『ゆゆ式』8巻4本目より

そうです、ここにきての映画回であり、同時にオチの2本が帰宅後という大転換でした。

f:id:monochromeclips:20211224033645j:plain

図15:『ゆゆ式』8巻4本目より

このコマなんて、ステレオタイプゆゆ式の構成からはまず出てこない構図でしょう。そしてそんな奇抜な打開策の延長線上にやってきたのが、みんな大好き9巻2本目の積極的迷子回。

f:id:monochromeclips:20211224033912j:plain

図16:『ゆゆ式』9巻2本目より

ファンの方には自明でしょうが、これ、ゆゆ式なんですよ。信じられますか、という。
掛け値なしに最高の一コマです。

f:id:monochromeclips:20211224034025j:plain

図17:『ゆゆ式』9巻2本目より

セリフなしの遠景を後ろから、という構図がまさかゆゆ式に現れようとは。

ことここに至り、セリフのないコマや効果的な背景の書き込みといった普段の場面ではなかなか見られない要素もふんだんに取り入れられた結果として

<原作における「ノーイベント グッドライフ」の行く先が示された>

ということになるのでしょう。こうしてアニメ同様の「イベント性」と寄り添える「反イベント性」を獲得したことにより、今後周回中においてどんな「イベント性」が描かれたとしても、そこに挿入される普遍性によってその描写は「反イベント性」を充足することになるのです。

この前進は、先に「拡張され、展開され、さらには克服され、飛躍する」といった「反イベント性」の到達点と言えましょう。この「反イベント性⊃イベント性」の構図は、作品世界を細部に至るまでより精密に、そしてより繊細に漫画という媒体へと写し取る際のこれ以上ない武器となったのでした。


(5)そして……

こうして確固たる基盤を得たゆゆ式という作品は、巻を重ねるごとに新たな手法や一風変わったスタイルを交えながら充実した月日を送ってきました(このあたりも触れ始めたらそれはもう楽しいでしょうが、流石に余力がありませんのでここでは諦めます。無念)。
10巻の頼子先生や11巻の公園は「イベント性」を味方につけた末の賜物といってよいでしょう。そしてこのたびの12巻では、いきなり2ページ分サブ3人組のソロ登場があたりと、もう自由自在です。

こうなってくると個人的には、そろそろ唐突にもっとダイレクトな「イベント性」をスっと差し込んでくるのも大いにアリなんじゃないか?、などと考えたり考えなかったり。(三上先生にその気が起きない限り)周回するゆゆ式時空に安心して浸っていられる、と信じ込んでいるからこその不用意な物言いですが、ここまで発展に発展を重ねてきた今だからこそ見てみたくもなろうというものでしょう。もちろん徹底して描かないこともまた一つの選択なので、どちらでも楽しめるとは思うのですが。具体的な話をしてしまうのはアレなので、まあそういう展開もアリだよね、という程度に。

では、「ノーイベント グッドライフ」の示すものが覆いきれないもの、つまり「イベント」足り得ないものとは、今のゆゆ式において果たして存在するのでしょうか。これは、「コミュニケーションの発生」および「コマンドの選択」の双方が為されないい場合、すなわち「【何もしないというアクションを執る】という選択すら生じないような条件で、ただひたすら時間だけが過ぎていく」という描写を伴えば可能かもしれません。既におわかりのように、この状況が描かれることはまずないでしょうね。

<…ゆゆ式と、「ノーイベント グッドライフ」に幸あれ。>


と、ここまで勢いに任せて書き並べてきたわけですが。何が言いたいかといえば、つまり「もはやゆゆ式は【イベントを描かないのもゆゆ式なら、イベントを描くのもゆゆ式】という境地に達している、といっても過言ではないのだ」ということなのです。果たしてこの先、我々はいったいどんなゆゆ式と出会えるのでしょうか。ああ楽しみというほかなし。


おわりに

と、いうわけで。「ゆゆカルミステリーツアー」いかがだったでしょうか。まあ表題のいいかげんさはなかなかのものですが、Topic 1<フェチ>、Topic 2<時の縺れ>、そしてTopic 3<意図>……と一見無秩序な3つのピースが、要請された(恣意的な)道筋に従い並べられることにより見えてくるもの。この試みの先にあるものがゆゆ式という作品世界を頭の中でこねくり回す際の一助となっていただければ、それこそ私も書いた甲斐もあろうというものでしょう。

フェチ、時の縺れ、意図。もじりきれませんでしたが、一つの文章の中に同じ系統のネタが二つ。

さて、これで「書こうと思いつつ書けずにいたあれやこれやをほぼノンストップで吐き出してしまおう」運動はとりあえずの区切りを迎えました。あとはせっかく最終日の投稿なので、いくつか気になった記事についてサラっと触れて退場と洒落こみましょう。


(1) 「動画配信活動」とゆゆ式

ゆゆ式のどこにゆゆ式を感じるか、という点によって様々な意見があるかとは思われますが、個人的に任意のソロ配信活動における雑談や生放送というのは「画面の向こうの第三者に相互干渉性を要求する」とか「意図されぬ「意図されぬライブ感」が生じ得る」とか、そういったあたりでぼんやりとした境界線が引けるような感覚があるんですね(ここまでに力を使い果たしたのでこれを説明する余力が足りず……)。また一方で、ある種のエンターテイナーが先導することにより企画された催し物というのはそのエンターテインメント性にテレビ放送のような見えない枠組みを感じてしまったり。

それらを踏まえたうえで、「第三者がいようといまいと(たとえ「画面の向こうの相手に向けた動画」という明瞭な性格があろうと)ただ会話しているだけで画面の向こうの人たちが楽しそうにしているのを楽しめる」というユニットとしては、私の個人的な好みだとバーチャル・デュオ・アーティスト『Marpril』の二人がとてもそれらしいかな……と常々。

www.youtube.com

まずそもそも二人とも笑い上戸だし。一方のへっぽこツッコミっぷりから漂う絶妙な唯感と、もう一方から滲み出る「ゆずこと縁がへっぽこギャルな空気を纏いつつ融合した」かのような得体の知れない空気。とどのつまり、コンテンツに触れているときの笑わせられ方に何か共通するものを感じとってしまうんですね。もし興味が湧いた方は検索してみていただければ。むろん楽曲も高クオリティ。

www.youtube.com

……つい先日のこのラジオとか。ラジオという形式でありながらも随所にかなーりおなじみの空気というか、台本とか聴取者とかいった要素を意に介さない無軌道っぷりを感じたもんな、うん。たのしい。
あと重要なのは、流石アーティストなだけあって、というか。笑いどころとしての音やリズムに敏感だったり、挨拶にしろ会話にしろ、グダグダだろうと起伏があるというところ。これらの要素が良い塩梅に噛み合わさって、絶妙な「ゆゆ式感」を醸し出している……というと言い過ぎか。個人の感想です。


(2) 「冗長性」とゆゆ式

冗長性の概念は、その媒体によって色々と拡張されますよね。文献にあたっていないので以降はただの妄言ですが。たとえば文章を読む行為や動画を見る行為においては、時間的尺度が引き延ばされるという「時間的冗長性」。絵や漫画においては、空間に占める密度が圧迫されるという「空間的冗長性」。そう考えると、4コマ漫画ってのは「時間的冗長性」がコマ数によりほぼ固定されているおかげで、それを損なうことなく「空間的冗長性」の補填によりリズムやテンポを調節することができる、という画期的なスタイルなんだなあ……とかなんとか。

なぜそんなことを言い出すかといえば、それはこの文章の形態があの「冗長性」に関する議論を読んだ後に【文章に時間的冗長性をもたせた場合の悪例を提示してみる】という裏テーマの実践として想定されたものだからなのです。ひどい。

では空間的冗長性が過剰な文章は、というと。これはたとえば、太字やら下線やらの処理をやたらめったら配置しすぎて逆に何を見ればいいのかわからない、のようなスタイルが挙げられるでしょうか。逆に極限まで冗長性が排除された文章といえば「セリフのみがただ羅列された台本」
なんてのが挙げられそうですね。韻文になってくると逆にわからなくなってくるな、まあ適当な戯言です。


(3) 「フレーム」とゆゆ式


3年前「ゆゆ式と常識」とその後いくらかのやりとりにおいて書かんとしていた文章の核。これを種々の固有名詞を伴う概念によって補強し、効果的な事例を提出することができれば、あのレベルのものが生まれるのだなあ……という謎の感動を覚えてしまったのでした。

この文章に関しても言えることですが、とにかく書きながら頭に浮かんだことを辛うじて読めるラインまで整理したうえで吐き出しているだけでは、そういった地点には到達できないんですよね。もうちょっとインプットに割く容量を確保しないとなあ、と思うことしきり。あと、このくらい冗長性を排除した文章を書くこともやはり必要ですね。

あ、大切なこと忘れてた。これを読んだ今だからこそ、改めて訴えたいことがありました。『マンガルカ Vol.2』、もはや手に入れる術は残されていないんでしょうか。もう何年も、たまに検索をかけては溜息をつく、の繰り返しでして。買い時を逃したものの末路と言われてしまえ
ばそれまでですが。……うん、書く場所間違えてるな。


流石にもう書くべきことも潰えたでしょうか。当初「去年時間余ったら書こうとして書けなかった椅子で書くぞ」と決めたときには、まさかあれよあれよという間にここまで話が広がってしまうとは想像だにしませんでした。

実はあの椅子、12巻においてそれまでの巻あたり登場コマ数を更新してくれてたんですよね。
4コマ単位にしてその数27本(加えて巻頭カラーで2ページ)。こればかりは結果論というか完全に運なんですが、めでたしめでたし。


やっぱりひとたび書こうと思い立ったら一気に書き切るのが吉ですね。これでもう2021年思い残すことはほぼなくなったといっていいでしょう。あとはゆっくり、『If you want to be happy, be.』あたりを楽しみつつ「ゆゆ式の冬」を満喫するとしましょう。



乱文乱筆失礼いたしました。
一足早いかも知れませんが、皆様よいお年を。


*1:

monochromeclips.hatenablog.com

*2:

monochromeclips.hatenablog.com

*3:

monochromeclips.hatenablog.com

*4:

open.spotify.com

*5:以後、この文章における回数の計上は巻頭書き下ろしを除くものとします

*6:

blog.livedoor.jp

*7:『マンガルカ vol.1.0』アニメルカ製作委員会、2014

*8:

nlab.itmedia.co.jp