ゆゆ式 Advent Calendar 2018 16日目:ゆゆ式と常識

はじめに

 

以下の文章は「ゆゆ式 Advent Calendar 2018」16日目の記事に該当します。

adventar.org

 

この記事を書き起こすためにブログを立ち上げたというレベルですので、リンクはおろか画像すら全くない(どちらも貼れました)無味乾燥な文字の羅列となってしまうやもしれませんが、何卒ご了承下さい。また、段落分けはPC閲覧を想定しています。こればかりはご勘弁願いたく。

 

登録時点では何をするのかも明記しませんでした。九割九分雑文を投下することは目に見えていたのですが、その中身がいまいち定まっていなかったためです。残念ながら、登録後に過去の記事や考察なさっている方々の文章を読み直す暇もありませんでした。仕方がないので、漠然と考えていた諸々をそのまま出力しようと思います。過去の論調とだだ被りしている可能性も否めませんので悪しからず。

 

常識とは何か

 

皆さんは、ゆゆ式は常識的な作品か、と問われた場合どう答えるでしょうか。

ジョークのセンスが常人には及ぶべくもないし到底常識的とは言えない、と答える方も多いかもしれません。勿論この記事を読んでいる方の多くがゆゆ式を好んでいる、ということは疑いようもない事実だと思われます。そのような歴戦の兵であっても、初めてこの作品世界に触れた際にはその斬新さに驚きを隠せなかったのではないでしょうか。しかし、私がここで述べたいのは「ゆゆ式のギャグが常識的なギャグの範疇に収まっているか」という話ではありません。あくまでも、「ゆゆ式という作品が常識的か否か」なのです。当然ながら、すると一体ここでいう「常識的」とはどのような状態を指すのか、という問題提起に繋がります。

 

ここで、話を簡潔に進めるために他の所謂「日常系」作品を引き合いに出したいと思います。当たり前のことですが、ここで比較される作品を貶める意図はない、という点についてご理解願います(寧ろどの作品も好きです)。私が印象に残っているのでパッと思いつく、という一点のみによって、『あずまんが大王(以下、あずまんが)』および『きんいろモザイク(以下、きんモザ)』の二作品に登場願いましょう。先に結論に触れてしまうならば、ゆゆ式あずまんがきんモザに対してある視点からみれば常識的である、ということになります。そしてその視点とは「コミュニティの中に通底したルールから逸脱した行為をどの程度とっているか」ということに他なりません。

 

common senseとゆゆ式

 

さて、まず最初に先に挙げた二作品の中からあるシーンを抽出します。一つは、あずまんがの別荘回でともちゃんこと滝野智が鍵を茂みに投げ捨てるシーン。もう一つは、きんモザのアリス誕生日回でシノこと大宮忍がプレゼントとして庭の石をあげるシーン。もう皆さんお気づきのことかとは思われますが、要するにゆゆ式にはこういった「友達であっても理解に苦しむ、最悪の場合喧嘩になる言動がギャグとして消費されていない」という点において常識的だ、ととるわけです。本来であれば、この論旨でゆゆ式を常識的と言い切るためには、これまでに描かれた物語をすべて復習する必要があります。しかし、準備不足からアニメ化されているシーンを代表として抽出します(申し添えておくならば、原作を含めてもそういった印象が芽生えるシーンはほぼ皆無だったと記憶しております)。アニメゆゆ式において、一人が放ったネタを残りの二人が受け止め切れていないシーン、というのは時折存在します。しかしこの場合、たとえばその消化されなかったという事実そのものが次の会話のネタとして昇華される、というようなパターンで十分な共通見解を生むことができています(このパターンが行きつくところまで行ってしまい強制終了されるのが10話Aパート、あいこじゃんけん周りのシーン)。これは三人の会話がそれそのものをネタとして楽しんでいる、筋書きによらない会話劇が成立しているという性質によるところが大きいと思われます。つまり、コミュニティ内においてcommon senseとしての常識が確立されているのです。

 

common sense外のゆゆ式

 

ここまで、ゆゆ式という作品ではコミュニティ内においてcommon senseとしての常識が確立されている、ということを述べてきました。それではコミュニティ外ではどうかというと、僅かながら例外、あるいはワイルドカードとでも呼ぶべき要素が存在します。その例外とは同じく10話、デッサン人形のくだりです。こちらのシーンでは、ゆずこが美術部から拝借したデッサン人形を破壊してしまうという予期せぬアクシデントが発生します。実はこのシーンにおける三者の対応が、翻ってこの作品がいかに常識的か、ということを際立たせています。このアクシデントは、アニメ本編の中で他者に迷惑が生じてしまうほぼ唯一といっていいシーンです。最終的には美術部先輩のツボに入ったので事なきを得たわけですが、このシーンにおける当事者ゆずこの対応は明白に(ネタの一貫だったかはさておき)借り物を壊してしまったことは借りた自分が責任をとって謝罪すべきである、という理解に基づいています。ゆえに彼女は同行を拒否します。そして、残された縁と唯を見比べたとき、よくゆゆ式考察勢の皆さんが仰る三者の精神的成熟度合いが見てとれます。なかなか戻ってこないゆずこに対して、唯は様子を見にいったほうがいいのではと提案しますが、縁はそれを「ゆずこが嫌がる」と却下します。このシーンだけを抽出しても、ゆずこ・縁・唯それぞれの考え方が端的に示されているといえるのではないでしょうか。

 

ワイルドカード松本頼子

 

さらに、common senseに対するワイルドカードとして挙げられるのは松本頼子先生の存在です。頼子先生は1話の時点で情報処理部メンバーに「おかーさん」と呼ばれています。果たしてこの呼称がゆずこたちを発端として波及したのか否かは不明ですが、4話では他の生徒にもある程度浸透している様子が確認できます(1話における否定の仕方から、どうやら前年度までの生徒が広めた呼称というわけではないと推測できるかもしれません)。1話ではやめなさいという明確な拒絶の意思表示こそないにせよ、翻弄されつつ実年齢とのギャップから否定しています。初手の時点で目上の人にはそれらしい言葉遣いをしなさい、と強く出て印象付けるのも一つの手でしょうが、ここでの対応は実に頼子先生らしい切り返しではないかと思います。ここまでの話の流れを顧みるに、これ以降三人は呼称を訂正するという流れになってもおかしくありません。しかし実際には現在に至るまでその呼称は使われ続けています。このような書き方をすると明らかな矛盾と思われるかもしれませんが、結局のところこの点については、4話でその呼称に対して肯定的な捉え方をする頼子先生という形を描くことによって、第三者視点で軋みが解消された世界が取り戻されています。この(本来三人からは見えない)頼子先生側の心情描写からストレスレスな世界が再確認される構造をワイルドカードと称した次第です。このあたりの見解はそもそも教師との接し方にどの程度柔軟性を許容できるか等の文脈において人れぞれ解釈が異なるところだと思いますので、あえて厳しめに見た場合、と考えていただければ幸いです。

 

あとがき

 

以上、ゆゆ式と常識という題で色々と面倒なことを書き連ねてきました。あとは適当に好きなネタについてでも触れておこうと思います。一番好きなネタを問われたら必ず「四ゾロの…半。」「丁だよ」と答えるようにしていますが(挙げ始めたらキリがありません)、この4コマにおける一連の流れはゆゆ式という作品が有する巧さを象徴していると思います。

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起きてすぐ寝言のようで寝言でない、明らかな突っ込みを求めるネタを投下できるセンス、そのネタの投下に対し即切り返せる関係性、相手が通じる人間だからこそ安心して放れるそのネタのチョイス、それぞれが実に完成された一本だと思います。もう感服せざるを得ないですね。この味はゆゆ式だからこそ出せるものだよなあ、と思います。

 

もっとちゃんと時間をかけて文章を組み立てたいですね。

というより、もっとちゃんとブログとしての体裁を整えるべきでしょう。

内容としては稚拙もいいところですが、何か書くという目的は達成できたので。

まあ及第点かな、と。

 

乱文乱筆失礼いたしました。

 

P. S.         松本頼子とワイルドカードで韻が踏める。